ナポリから電車でポンペイに行く。南の陽光の下、
電車はヴェスヴィオ火山を左に、地中海を右にみ
て進んでいく・・・。
7月6日 (木) ポンペイ
「ああ、勘違いのポンペイ」
ポンペイに行く。これも今回の旅の大切なテーマの一つだ。ポンペイという場所を知ったのは小学5年生のことだ。きっかけは忘れたが、クラスで友達と話していたときある女の子が「私はいつかポンペイに行ってみたい。噴火の灰でおおわれてしまったところ」といった。それでその日、家に帰って地図を広げて探したが、ボンベイという街をインドに見つけ、私は長らくここが噴火でおおわれた街だろうと思っていた。
ポンペイを正しく知ったのは中学2年で、地理の時間であった。子供のことながら自分の間違いが面白く、それから私はいつかポンペイに行ってみたいと思うようになった。
さて、ナポリ中央駅に行き、ポンペイに行く列車を調べようともせず人に聞く。悪い癖ができた。
サラリーマン風の男性が親切に出発列車リストを見てくれて、21番線のセントーサ行きだねと教えてくれた。彼は正しかった。海辺を南に走り、ヴェスヴィオ山を左に見て進む。方角もあっている。いくつも海水浴場を通り過ぎる。
ガイドブックによるとナポリから30分とある。降りる駅名はビラ・デ・ミステリといい、ミステリとはよくいったものだと思いながら駅に着くたび用心をする。しかし、そういう駅はついぞなく、いきなりポンペイ駅についてしまった。ここで降りないとまずそうと直感で降り、駅員に聞くと、ビラ・デ・ミステリには行かない、ここで降りて1キロ歩けばいいよと教えてくれた。
私が乗ったのは国鉄で、ポンペイの遺跡に直接行ける駅は私鉄のものであった。
数グループの乗客が同じようで、歩きだしたり、タクシーに乗ったりしている。私は駅の構内で日本語のガイドブックを見つけ。それを読みながら遺跡まで20分歩いた。
「ガイドは大声の人を選ぼう」
遺跡の入場口で英語によるツアーがあり、さかんに誘っている。本を見ながらでは時間がかかると判断し、それに加わることにした。彼は専門ガイドのマリアーノといって、ドイツ・フランス・スペイン・英語・ポルトガル・そしてイタリア語の6カ国語で案内することができる。そしてガイドさんの呼び込みを聞いていても彼が一番大声で明瞭な発音だった。彼について見学することにする。下の写真でファストフード店の説明をしているのがマリアーノ。
遺跡の中に入り、当時のままの石壁や階段、家並みをみながら進む。市役所、裁判所、神殿、製布業者の販売所、製粉所、パン屋、スープバー、共同浴場、住宅、娼婦の館、劇場・・・。なんでもある。下はパン屋で、釜と臼が見える。
通りは一段低い車道が中央を走り、歩道は脇をとおる。交差点では下りずに向こうに渡れるように大石をおき、馬車も通れるよう隙間をあけている。ローマと同じように通りにはいくつもの水のみ場がある。これは我々観光客が利用できるよう水道が回されている。
周囲3キロの丘の上につくられたこの街は紀元前8~6世紀まで歴史を遡るそうだ。そのころからヴェスヴィオ火山は活動しており。そこからとれる凝灰岩を建築資材に活用している。皮肉にも火山の石によって街をつくり、火山の噴火によって街は滅んだ。
下の写真はポンペイからみたヴェスヴィオ火山だ。
いくつか白い遺体のようにみえる石膏像がある。それは噴火の灰のなかにうずまった人が犬などの動物や家具などが長い年月で分解し、地中内で空洞になったものに石膏を流し込んで再現させたものである。苦しげにしているもの。
子供を抱きかかえている母親。逃げられなかった奴隷はおなかに巻かれた太いベルトでそれと分かるのだそうだ。市民の着ていた衣装のひだまでが分かるのもある。
家の外壁はオレンジや明るい茶で彩色され、屋内の壁に描かれたフレスコ画や床のモザイクも見事で、当時のポンペイはたいへん明るくカラフルな街であったことも分かる。
ヴェスヴィオ山の噴火は西暦62年にもあり、そのときの地震で倒壊した建物も多かったという。ある貴族はそれから立ち直れずに79年の噴火を迎えたために、家屋が本来の半分もなかったという。
西暦79年8月24日午前11時20分、突然の噴火で火山弾が飛び、おびただしい降灰は3日間続いた。海に逃げた人も多く、船で避難した人もいたというが火砕流によるガスと津波が彼らを襲い、どれほどの人が逃げ延びたのかは分からないという。
周辺にあったいくつかの街も同様に倒壊し灰に埋まったが、ポンペイに積もった灰はやわらかくまた、建物などへの打撃力が弱かったので、街の保存にはよかったのだという。
浅間山に似たヴェスヴィオ山の活動は1944年からなく、我々は次の噴火を待っているのだとガイドのマリアーノはいう。幸い、きょうは大丈夫のようですがねと笑わせてくれた。
よく晴れて暑い日であったが、2時間の見学も短く感じるほどポンペイの街は魅力的であった。